陶造形にみる今日的表現の可能性 作品『Ceramic Clip』及び研究報告書              
The Possibilities of Today's Expression on Ceramic Works : Work [Ceramic Clip] with research paper
筑波大学大学院芸術学修士論文 2005.2
梗概

序論

 筆者が専らにしている陶造形では自然現象に造形要素の多くを委ねるところがあり、その中でつくり手は求めればいくらでも素材と現象とのやりとりに没入することができる。しかし、それは人為を完全に及ぼすことが困難な現象を多く含んでいるために、頭で考えた形を合理的に創出することには適していない。

 一方、これまで今日的表現の創出を担ってきた現代美術の多くは任意の媒体を用いて意図を具現化してきた。だが、昨今の現代美術の大半は意図によって新しい価値を見出すことができなくなり、芸術的価値の「再生産」に陥っている。

 本論文はこのような芸術的価値「再生産」の時代を背景として、実際に陶造形を手掛ける筆者が、陶造形の中に現在の造形表現が失いつつある芸術特有の未知性や原初的魅力の存在を予感し、そこに今日的表現の可能性を見出すことを目的としたものである。



第1章 陶という素材

 本章では現在一般の人々が多く持っている陶への固定観念をそぎ落としたところで、陶の性質を物理的、科学的に説明し、陶の存在を再確認した。また、その上で粘土から陶へ至る過程の実際を筆者の制作をとおして概観し、そこで獲得される認識について解説した。

 粘土から陶へ至る過程における陶の特性とつくり手のやりとりは「酩酊」するほどに綿密であり、日本では現在その造形過程自体が対象化され「陶造形プロセス」という独立した表現要素として認識されている。



第2章 「工芸」の今日的意義

 本章では現在の陶造形を取り巻く状況について考察した。陶造形は日本においてこれまで主に「工芸」の分野で扱われてきた。よってここでは陶造形の置かれている状況を「工芸」と規定し、今日における「工芸」の意義を日本明治近代化に際する制度としての「美術」の成り立ちと、その過程で形成された「工芸」の境遇から検証した。

 また、その「工芸」が示唆する造形表現の母体と、「再生産」以前の現代美術が到達した表現領域の共通性について考察した。

 「再生産」以前の現代美術は表現の問題を突き詰めるうちに額縁や展示台から離れ、「美術」の範囲を押し広げる過程で素材、自然現象、制作行為、それに関わる人、あるいはその営み全てを抱え込もうとしたが、人や技術を含めた意味を持ち、自然素材や現象と関係することを出発点に置く「工芸」はそれらを最初から含み持っていたといえる。



第3章 現代美術にみる陶

 本章では現代美術作家の陶の仕事を取り上げて、現代美術にみる陶について考察した。

取り上げた作家はジェフ・クーンズ、キキ・スミス、リチャード・ディーコン、ジュゼッペ・ペノーネ、ルーチョ・フォンタナの5人である。

 この中でジェフ・クーンズとキキ・スミスは彼等が設定したコンセプトを具現化するためだけに陶を選択している。一方、リチャード・ディーコン、ジュゼッペ・ペノーネ、ルーチョ・フォンタナの陶作品の中には陶の性質とつくり手の関係が確認できる。もっともリチャード・ディーコンは実作を陶工につくらせており、ここに陶造形と他の事象との間の問題が浮上してくると筆者は予感するが、ここに示した前者と後者の対比が、筆者の過去作品の制作過程に確認できるため、その仕事を取り上げて、端的なコンセプトをもって陶造形に向かうことと、その向かった先で獲得される認識との差異について述べた。



第4章 現代陶芸の実際

 本章では陶造形を主要な表現媒体にしているつくり手の仕事を取り上げた。取り上げた作家はピーター・ヴォーコス、秋山陽、トルビョルン・クヴァスボー、齋藤敏寿、井上雅之の5人である。

 これらの作家の仕事は全て「陶造形プロセス」の中に独自の認識を獲得しているものであるが、この中で素材や行為、あるいは「陶造形プロセス」自体を常に対象化し続けてきた井上雅之の態度は、陶造形の今日的な在り方を探る上で特に重要となるため、詳しく考察した。



第5章 修了制作作品報告

 2002年以降、筆者が造形のきっかけとして用いている“噛み合わせ”の制作によって展開してきた過去の作品について解説し、それらの問題と経緯を踏まえて制作した修了制作『Ceramic Clip』の制作報告、および制作後の自己批評を行った。



結論

 ここまで取り上げた陶作品の比較をとおして、今日、陶造形は「陶造形プロセス」を目的とするものではなく、その深部で独自の認識を獲得しながら、それを対象化して世界と照らし合わせていくべきものであると結論付けた。筆者が実践する表現もこれを行うものである。

 また、今日においては陶造形におけるモノと行為と現象の間のやりとりの中に獲得できる認識や、「工芸」にみる造形表現の母体といった造形表現上の根源的な条件が、近代合理主義の中で明瞭な答えを求め過ぎた文明社会にとっては他者として、不穏にも、未知性をもたらす存在として振舞うことを述べた。今日、表現者が陶造形の中に没入し、自己単体では獲得できない認識を一つ一つ取り戻していくことは、理論的、合理的に進展し過ぎた現代美術が「再生産」に陥ってしまったことへの真偽も踏まえて、美術史的にも重要になってくると思われる。

 人間の意識どおりの世界を素通りし、再度世界を捉え返す手段として陶造形は有効であり、そこに発露する認識は、世界を今よりも開かれたものにする可能性を有している。